3丁目 明治村古墳

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 土曜に3丁目にある古墳の特別見学会があり参加してきました。ただ画像は残念ながらアップできませんのでご了承ください。

 この古墳は6世紀から7世紀ごろの飛鳥時代が始まるころに作られたものとされ、南を向いた丘陵で山からの水が集まり豊かな地であったからか、石器時代や縄文時代から人が定住し矢じりなどが見つかっています。古代ヤマト政権が入鹿屯倉として直轄で管理運営していました。このような経緯から有力な支配者が長年にわたり存在し、入鹿地区には多数の古墳が作られました。特にこの古墳は入鹿池周囲に多数存在する古墳群と比較すると一回り大きなものとされています。ただ今まで公式に調査されたことはなく、現状では誰が埋葬されたのか具体的なことはわかっていません。石室の構成する石材は地元の石を使っているとはではわかっています。また入鹿池周囲にある多数の古墳は現在ヤブに覆われていて研究者でも容易に近づけない状況となっているようです。そして池に沈んだ古墳もあるとのことで、入鹿池が作られた際に掘り出された副葬品と思われる刀剣がまとめて葬られた刀塚が入家池の畔に存在します。

 明治村古墳の状態は石室の部分が若干開いており土砂が流入して半分以上が埋まっています。このため棺や副葬品が手つかずのまま眠っている可能性があるそうで、本格的な発掘が実施できれば大きな発見がもしかするとあるのかもしれません。犬山市や愛知県の教育委員会に期待したいところです。
 講師の先生にいくつか質問をしてみたところ、明治村古墳は事地域では一番高い場所に位置しておりまた一回り大きいので、もしかすると入鹿地域での一番上の地位の人間であるかもしれない(ただ確証はない)とのことでした。古くから存在した入鹿村ですが、江戸時代の入鹿池建設の際に村社である虫鹿神社とともに前原新田などに移住しましたが、なぜか以前の記録は子孫に伝承されておらず、古墳を先祖として見ていたのか全く分からないとのことでした。

 入鹿と呼ばれるこの地ですが蘇我入鹿と関係あるのかという話もありましたが、関係があれば面白いな程度です。しかしながら岐阜県各務原市蘇原に9世紀末建立された加佐美神社があり、蘇原の地名も蘇我氏の一員蘇我倉山田石川麻呂が治めていたからとされていたりと全く無関係とはいえないような大変微妙な位置関係となっています。

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 小雨の降る日でしたが大変興味深い充実した時間でした。


 おまけ
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 9月まで名電1号形が展示されていた建物は次の展示に使われるみたいで改修工事が行われていました。


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 よく観ると床の線路と石畳が撤去されていました。果たして何が次に展示されるのでしょうか。


 ご訪問、ありがとうございました。
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by k0531k | 2024-01-22 22:14 | 明治村 | Comments(0)